アクションスケープ(『建築雑誌』2001年5月号掲載)
禁煙礼賛?
 この3月までお世話になった名古屋工業大学で、学科の禁煙ワーキンググループに任命されたことがある。「喫煙コーナーを設けよう」という折衷案もあれば「いや完全禁煙だ」という意見もあったが、結局、各研究室内は先生方の裁量に任せられ、それ以外の場所は禁煙ということになった。やがて、禁煙ポスターを掲示し、灰皿を廊下から玄関先に移動し、やれやれと思っていると、ふと、玄関の外に先生と学生たちがしばしばたむろするようになっていることに気づいた。逆光が煙を透かしてなにやら楽しげな人たちを輪郭づけていた。灰皿の周りに喫煙者が集まるのは当然のことかもしれないが、日溜まりに自然発生的に出現したコミュニティは、美しい光景だった。ちなみに、わたしはたばこを吸う習慣はなく、煙は好きとはいえないが…。

ジベタリアン
 ここ数年、日本の街をなにげなく歩いていると、地面に座り込んでいる若者たちが目に付くようになった。彼らは、俗に「ジベタリアン」と呼ばれる。ジベタリアンは、階段や路上のちょっとした段差や壁面を利用して座り込む。会話を楽しむというよりはむしろ人の往来などの風景を眺めていることが多いようである。実際に座ってみると、夏目漱石の「猫」になったような、視点の高さの違いによる心理的な異空間の形成を実感する。安部公房は、『箱男』で、一方的に覗くだけで相手から覗かれることを免れる立場の人間を、小説に対する読者の立場まで範疇に入れて示してみせたが、あるいは、ジベタリアンたちは、この箱男気分を味わっているのかもしれない。

イレギュラー
 街を歩く人々にとって、路上の一部を占領しているジベタリアンは邪魔な存在である。「立つかベンチに座りなさいよ」「人前でべたべたして…」などと敬遠する人々の気持ちも無視できないし、場所の性格によっては排除すべきかもしれない。しかし、ジベタリアンの視点・視線は、人の都市に対する新しい関係の一例を示しており、都市に対して能動的であるといえるのではないだろうか。近未来の都市像が、現在のパラダイムを超えたところにあるとしたら、彼らの姿勢を巡る思考の中に、その可能性を見いだせるのかもしれない。
 人の行動は、必ずしも計画者の指向に則しているとは限らない。人々は既成の枠にとらわれず、多様な環境を常に創造し続けている。ただし、それらは計画された都市の構造そのものを更新するものではなく、あくまでイレギュラーとして存在する。
 計画を越えた多様性は都市の魅力のひとつであり、それを感じさせる都市は、おもしろい。そして、その要因は、往々にして、その場に対してイレギュラーなものである。

もうひとつの都市
 都市を空間の断片の集積として個別に認識する限りにおいて、互いの関連性が実際の都市の空間構成と異なる場合がある。例えば、写真家がある都市を題材に作品を撮るとき、多くの個性的な場を見つけだし、街の特徴を顕現化させるであろうが、そのとき、各写真の空間的位置づけは元の都市空間とは無関係に再構築して認識される。つまり、都市の風景を思い浮かべるとき、人の記憶の中には、経験に基づくストーリーによって強固に意味づけされたもうひとつの都市が存在しているともいえる。
 このいわば記憶の都市は、思い出の中にのみ成立しうる虚構であり、その構成は極めて個人的な経験によってのみ説明されうる。それは物理的空間からも時間からも自由に解き放たれており、およそ他者からは認識されがたいものかもしれないが、都市の魅力はそもそも個人的な経験の膨大な蓄積によって得られるものであり、記憶の都市の中にこそ新しい都市像を探る可能性が秘められうるのではないだろうか。

装飾は罪悪かもしれないが魅力的
 枚挙にいとまがないが、以上のような都市の人的要素をアクションスケープ(活動景)と呼びたい。アドルフ・ロースの『装飾と罪悪』の中に、トイレの落書きを揶揄するくだりがある。しかし、100年近くを経てもそれはなくならないし、むしろそういった人の活動の痕跡の集積が都市の魅力とすら思える。近代建築界は、落書きのような広い意味での装飾に対していささか禁欲的過ぎたのではないだろうか。建築学が変貌するとすれば、それはモダニズムの狭間にうっかり落としてきた価値観を拾い上げることから始まるのではないかと考えている。

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